萩原朔太郎とカメラ
明治時代に生まれ、大正、昭和にかけて活躍した、「日本近代詩の父」と言われる詩人の萩原朔太郎には、「言葉」の他にもう一つ、彼の詩心を表現する手法があった。それが「カメラ」である。
朔太郎がカメラと出会ったのは一九〇二年(明治三十五年)、彼が中学生の頃で、六十五銭で写真機を購入した。
*萩原朔太郎の撮った写真については『萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや―詩人が撮ったもうひとつの原風景 (フォト・ミュゼ)』 に詳しい。
撮影した写真の距離感や構図、被写体などをぼんやりと眺めていると、自然の景物であっても、人物であっても、なるほど確かにこれは抒情的な詩人が写しとった景色である、というのが不思議と感じられる。
彼の言う「詩のにほひ」というものが薄い膜のように風景を覆っているのが、どの写真からも伝わってくる。
決して対象に近づきすぎない。遠く、彼方を眺めるようなまなざしで世界をとらえる。失われていくもの。失われてしまったもの。刻々と過去にいざなわれていく光を、繊細な詩人の手のひらでそっと掬いとっているようだ。
朔太郎が愛用したのは、フランス製のステレオカメラだった。ステレオカメラとは、双眼鏡のような形をしたカメラで、朔太郎の友人たちは、その見た目に「なんだ、そんな玩具みたいなもの」と軽蔑した。しかし、周囲の評判にもかかわらず、朔太郎はあくまでステレオカメラにこだわった。
ステレオカメラで撮った写真を、ステレオスコープで覗き見る。ステレオスコープとはレンズが二つある光学器械で、ステレオカメラで撮った二枚の写真を横長の板に並べて覗くと立体に浮き上がって見える仕組みになっている。
ステレオ写真と、ステレオスコープの効果によって生じる三次元的な揺らぎが、目の前の風景を夢や幻想のように映し、心に巣食う「郷愁」に近づけた。朔太郎は、カメラと詩の関連性と、彼が写真を撮る理由に関し、「僕の写真機」という随筆で次のように綴っている。
元来、僕が写真機を持つてゐるのは、記録写真のメモリィを作る為でもなく、また所謂芸術写真を写す為でもない。一言にして尽せば、僕はその器械の工学的な作用をかりて、自然の風物の中に反映されてる、自分の心の郷愁が写したいのだ。
僕の心の中には、昔から一種の郷愁が巣を食つてる。
それは俳句の所謂「佗しをり」のやうなものでもあるし、幼い日に聴いた母の子守唄のやうでもあるし、無限へのロマンチックな思慕でもあるし、もつとやるせない心の哀切な歌でもある。
そしてかかる僕の郷愁を写すためには、ステレオの立体写真にまさるものがないのである。
萩原朔太郎『「随筆 僕の写真機」萩原朔太郎写真作品 のすたるぢや―詩人が撮ったもうひとつの原風景 収録』より
朔太郎が写真を撮る理由。それは記録として残すためでもなければ芸術写真を撮りたいのでもなく、自分のなかに巣食う「郷愁」を写したい、というものだった。
そのためには、ステレオの立体写真が彼にとってもっとも適切で心地よいツールだった。朔太郎は、ステレオ写真と出逢った十代の頃から晩年に至るまで病床に伏してからもずっと、この立体写真を覗いていた。