雑文

名前で呼ばれる作家、名字で呼ばれる作家、フルネームで呼ばれる作家

名前で呼ばれる作家、名字で呼ばれる作家

日本の作家には、「中也」や「賢治」のように名前で呼ばれる作家、「太宰」や「芥川」のように名字で呼ばれる作家、あるいは、「村上龍」や「谷川俊太郎」のようにフルネームがしっくりくる、という作家もいます。

一体なぜこうした「住み分け」があるのでしょう、果たしてそこに規則性はあるのでしょうか。

試しに、名前で呼ばれる作家、名字で呼ばれる作家、フルネームで呼ばれる作家と、主観も交えつつ思いつくままに書き出してみます。

《名前》

中原中也(中也)、宮沢賢治(賢治)、大手拓次(拓次)、八木重吉(重吉)、竹久夢二(夢二)、坂口安吾(安吾)、夏目漱石(漱石)、森鴎外(鴎外)、田山花袋(花袋)、村上春樹(春樹)

《名字》

太宰治(太宰)、芥川龍之介(芥川)、川端康成(川端)、谷崎潤一郎(谷崎)、三島由紀夫(三島)、寺山修司(寺山)

《フルネーム》

谷川俊太郎、村上龍、安部公房、吉本隆明、よしもとばなな、小林秀雄

こうした呼び方の違いについては、ネット上でも同じような疑問が挙がり、理由として考えられる意見も紹介されていました。

もっとも説得力があったのは、シンプルに「格好いい」というものでした。響きの格好よさ、というものが定着に一役買ったのでしょうか。

確かに、太宰(ダザイ)、と呼ぶほうが、治(オサム)と呼ぶよりも、作風とも合っているような気がします。

太宰の『人間失格』と、治の『人間失格』では、「失格」の度合いがずいぶんと違うようにさえ感じられます。

もちろん、その名前が、ペンネームか本名か、という違いも大きいでしょう。

たとえば、夏目漱石は本名が夏目金之助で、わざわざ「漱石」とつけたのだから、「漱石」と呼ばれるのが普通だったのではないでしょうか。

反対に、詩人の「中原中也」は、父親の婿養子等の関係で幼少期に名字は変わったものの、幼い頃から、詩人としてもずっと本名の「中原中也」のままです。そして、周囲からは「中ちゃん」「中也」と呼ばれてきました。

だから、そのまま彼のことを呼んだり文章で批評する際にも、自然と「中也」になっていったのではないでしょうか(ただし、全員かどうかは分からないが、彼の友人らは中也のことを「中原」と呼んでいます)。

作家の呼び方というのは、響きや見た目、作風などが複合的に絡み合って、自然と出来上がっていくものなのかもしれません。

中也の詩は、「中原」ではなく、どうしたって「中也」であるように。