宮沢賢治『春と修羅』『注文の多い料理店』初版本
宮沢賢治は、今でこそ誰もが知っている詩人、童話作家として有名ですが、生前に出版された本は詩集『春と修羅』と童話『注文の多い料理店』の二冊だけでした。
賢治にとって最初の単行本となる詩集『春と修羅』は、一九二四年、自費出版として刊行。宮沢賢治自身は「詩集」というより「心象スケッチ」と言うのを好んだようです。
前に私の自費で出した「春と修羅」も、亦それからあと只今まで書き付けてあるものも、これらはみんな到底詩ではありません。私がこれから、何とかして完成したいと思って居ります、或る心理学的な仕事の仕度に、正統な勉強の許されない間、境遇の許す限り、機会のある度毎に、いろいろな条件の下で書き取って置く、ほんの粗硬な心象のスケッチでしかありません。(一九二五年、二月九日)
宮沢賢治の手紙(森佐一宛て)より
実際に『春と修羅』の表紙にも「心象スケッチ」という言葉が記載されています。
生前に刊行されたもう一冊の本『注文の多い料理店』は、『春と修羅』出版と同じ一九二四年暮れに出版。装丁と挿絵は菊池武雄が担当。
菊池は岩手出身で当時福岡で中学校教諭を勤め、図画を教えていましたが、同僚の紹介で賢治の作品の装丁と挿絵を依頼されます。
当初菊池は断ったのですが、賢治に、職業画家でないほうがいいと励まされ、装丁と挿絵を引き受けます(挿絵は菊池が自由に構想)。
残念ながら、両方とも売れ行きは芳しくなかったものの一部では知られ、詩人の中原中也も宮沢賢治の詩を高く評価していました。
私にはこれら彼の作品が、大正十三年頃、つまり「春と修羅」が出た頃に認められなかったといふことは、むしろ不思議である。私がこの本を初めて知ったのは大正十四年の暮であったかその翌年の初めであったか、とまれ寒い頃であった。由来この書は私の愛読書となった。何冊か買って、友人の所へ持って行ったのであった。
彼が認められること余りに遅かったのは、広告不充分のためであらうか。彼が東京に住んでゐなかったためであらうか。詩人として以外に、職業、つまり教職にあったためであらうか。所謂文壇交游がなかったためであらうか。それともそれ等の事情の取合せに因ってであらうか。多分その何れかであり又、何れかの取合せの故でもあらう。要するに不思議な運命のそれ自体単純にして、それを織成す無限に複雑な因子の離合の間に、今や我々に既に分ったことは、宮沢賢治は死後間もなく認めらるるに至ったといふことである。
ちなみに、力士の頂仙之助(菊池政彦)さんは、この装丁と挿絵を担当した菊池のひ孫に当たります。