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八木重吉

八木重吉 妻登美子と詩集

八木重吉 妻登美子と詩集

八木重吉は、悲しみの深い詩を数多く残した戦前の詩人で、一八九八年に東京で生まれ、一九二七年、まだ二十九歳という若さで亡くなった。重吉は、一途に愛し続けた最愛の妻である登美子(とみ)と、まだ幼い娘、息子という三人の家族を残し、詩業としても志半ばのまま夭折した。生前に出版された詩集は『秋の瞳』一冊のみだった。

重吉の亡きあと、我が子を育てるために洋裁の内職をするなど必死に働いた登美子だったが、悲劇は続く。娘の桃子が一九三七年に、息子の陽二が一九四〇年に、それぞれ十四歳と十五歳という若さで相次いで亡くなる。死因は重吉と同じ結核だった。

重吉の詩には、まだ幼かった頃の桃子と陽二の姿も描かれている。

赤い寝衣(ねまき)

湯あがりの桃子は赤いねまきを着て
おしゃべりしながら
ふとんのあたりを跳ねまわっていた
まっ赤なからだの上したへ手と足とがとびだして
くるっときりょうのいい顔をのせ
ひょこひょこおどっていたが
もうしずかな障子のそばへねむっている

人形

ねころんでいたらば
うまのりになっていた桃子が
そっとせなかへ人形をのせていってしまった
うたをうたいながらあっちへいってしまった
そのささやかな人形のおもみがうれしくて
はらばいになったまま
胸をふくらませてみたりつぼめたりしていた

病気

からだが悪いので
自分のまわりが
ぐるっと薄くなったようでたよりなく
桃子をそばへ呼んで話しをしていた

夕焼

あの夕焼のしたに
妻や桃子たちも待っているだろうと
明るんだ道をたのしく帰ってきた

陽二よ

なんという いたずらっ児だ
陽二 おまえは 豚のようなやつだ
ときどき うっちゃりたくなる
でも陽二よ
お父さんはおまえのためにいつでも命をなげだすよ

妻は陽二を抱いて
私は桃子の手をひっぱって外に出た
だれも見ていない森はずれの日だまりへきて
みんなして踊ってあそんだ

朝眼を醒まして
自分のからだの弱いこと
妻のこと子供達の行末のことをかんがえ
ぼろぼろ涙が出てとまらなかった

桃子も陽二も優しく親思いの子供に育った。桃子が病で療養しているときも、弟の陽二は姉の回復を一心に祈り、看病を手伝った。登美子は重吉の遺稿をバスケットに入れて守り、子供たちが成人したら三人で詩集をつくろうと話し合っていた。

しかし、夫の八木重吉、娘の桃子、そして息子の陽二と皆この世を去ってしまった。張り詰めた糸は切れ、うつろな心のまま、幾日もの日々が過ぎた。そんなある日のこと、登美子はふと、重吉の遺稿がたくさん詰まったバスケットを開け、重吉の詩を読んだ。

妻よ
わらいこけている日でも
わたしの泪をかんじてくれ
いきどおっている日でも
わたしのあたたかみをかんじてくれ

重吉の詩たちが、一人残された登美子の空っぽの心に染みこんできた。目からは、ぽろぽろと涙がこぼれた。そうして登美子は自分に残されているものに気づいた。

桃子よ、陽二よ、とよびながら、不意に私はおもったのだった。ああいまの私に遺されたものはこの詩たちだけだ。いまもこうして手にとって読むことのできる、八木の魂に直かに触れることのできる詩たち。いまも生きている詩たち。

桃子と陽二が成人したら三人で八木が遺した詩を詩集につくりましょうと話し合っていたのであるが、その桃子も陽二も亡いいま、私に残された仕事は、この詩稿を命かけても守りぬいて、何とかして詩集につくることではないか。それが夭折した詩人の妻に、ただ一つ残された仕事ではないのだろうか。そのために、どんなに辛くても私は生きてゆかねばならない。

吉野登美子『琴はしずかに〜八木重吉の妻として〜』

その後、戦争が激しさを増していく時代に、登美子は製綿工場や病院で働きながら、重吉の詩集を作りたいと願った。まもなくして詩人の仲間たちの協力のもと八木重吉の遺稿を集めた詩集が出されることになった。戦争のために紙が少なく、紙質なども決してよくはなかったが、詩集の出版が決まった。付録集の巻頭には、詩人の高村光太郎が書いた「八木重吉の詩について」という文章が添えられた。

八木重吉の詩をおもい出すのはたのしい。たのしいと言っただけでは済まないような、きれいなものが心に浮かんで来る。もういつの頃だろう。大正の末か昭和のはじめ、あんないい、せつない、星のような詩人が居たと思うだけでも、がさつな氣持ちがじっとりして来る。ふっと浮んで誌がそこらの身辺にみちみちている事を感じる。

私は八木重吉を個人的に知らないし、その人柄をもトピック風には記憶していない。知っているのはその詩集、「秋の瞳」と、「貧しき信徒」の中の彼だけである。三十で死んだという彼のはかない生涯から、しかしこんなに人の魂を慰めてくれる息を吐いて往ってくれた事はありがたい。

詩が呼吸のようなものだという事を教えられるのは、詩にたずさわる者にとって限りなく心強い。詩は大地が「霜を出す」ように詩人が出すものなのだ。詩の形式は如何様にもあれ、結局詩は出されるようになって出され、消されるようになって消されるのだ。それでよいのだ。出されるようにならない処には百篇の詩型あって一片の詩もない。八木重吉は詩につつまれていた。彼の思いせまった、やわらかな詩はふりかえらずに居られない。

高村光太郎「八木重吉の詩について」

この文章を読むことができたら八木はどれほど喜んだだろう、と登美子は思った。詩集が完成したのは、一九四二年七月のことだった。三人の写真の前に詩集を置き、詩人の妻は涙を流して喜んだ。