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八木重吉

八木重吉 詩人の手紙と結婚、そして家族

八木重吉 詩人の手紙と結婚、そして家族

キリスト教詩人とも自然詩人とも言われる明治生まれの詩人八木重吉。

実際に彼の詩を読んでみると、素朴な自然を歌ったものが多く、また、掴めるようで掴めない優しい手触りの詩が、彼の作品の魅力でもあった。たとえば、こんな詩がある。

花がふってくると思う

花がふってくると思う
花がふってくるとおもう
この てのひらにうけとろうとおもう

短く、単純な詩だが、だからこそ花が降ってくる様子が映像として脳裏に浮かぶ。そして、「思う」が「おもう」となり、最後は全てがひらがなになるという表現によって、手のひらと降ってくる花とが混ざり合って一体となっていくような感覚が想起される。

詩人の高村光太郎は、八木重吉の詩について、「八木重吉は詩につつまれていた。彼の思いせまった、やわらかな詩はふりかえらずには居られない」と綴っている。

一方で、この悲しみと光とが共存したような軽やかで柔和な詩風とは少し色合いの違う面として、八木重吉には、キリスト教に対する決して揺るがない深い信仰心と、恋心を抱きのちに結婚する妻登美子への一途な愛情があった。

重吉と登美子の二人が出会ったのは、一九二一年(大正十年)三月中旬、重吉二十三歳、登美子(島田とみ、戸籍上は「とみ」だが、登美子、富子など表記が一定ではなく、本人はのちに「登美子」と名乗っている)十六歳の頃のことだった。登美子が編入試験を受けるに当たって家庭教師を務めたのが重吉だった。

重吉は、登美子の姉の知り合いで小学校の教員をしていた石井先生が住んでいる池袋の家に下宿していた。登美子は当初石井先生にお願いするつもりだったが、先生に下宿中の重吉を紹介された。ただ、重吉が家庭教師を行なった期間はわずか一週間ほどだった。重吉はちょうど大学の卒業間際で、まもなく英語教員の職に就き、兵庫県御影町に赴任することになっていたのだ。

重吉の登美子に対する想いはたった一週間という期間にもかかわらず、たちまち膨れ上がっていった。

離れ離れになったことで恋心はいっそう高まり、日記では煩悶を綴り、手紙ではのちに彼が書き溜める静かで儚い詩とは似ても似つかない情熱的な表現で、まだ若く恥ずかしがり屋だった登美子を驚かせた。

後年、その頃のことを振り返って登美子は「びっくりした」「めまいさせるものがあった」と残している。

富子さん、私は、打ち震う胸と手であなたからの小さい封筒を切りました、小さい、けれども、此の世のどんな外のものよりも私にとって尊いものです

(中略)

懐かしい想出の種となった池袋で、一緒に勉強した、あのとき、私は、不思議な魅力を感じました、あなたの額はあのギリシャの彫刻に見る聡明さがあらわれておりました、あなたの静かに澄んだ瞳は、波跡すらない森厳な湖のように、限り無い神秘と、悲しさを物語っておりました、そしてあなたの唇は! ああ、私が忘れようとして忘れ難いのはその美しい、けれども哀しさに充ちあふれたその唇であります、ダヴィンチの名画モナリザの唇のあたりにただよう不思議な魅力を、私は、あなたの、秋の雨にぬれて嘆くようにつつましく閉じた唇に感じたのでした

(中略)

私はあらゆるものを捨ててもかまいません、もしもそれが私の「信仰」を養い育ててくれるのであったら、けれども(こう言うのをあなたは許してくださるでしょうか?)わたしにとって天使である、(富子さんはまったく地上の少女のようには思われません)あなたの潔い潔い御心、悲しくも美しい瞳、唇 ─── を忘るることはどうしても出来ないでしょう(大正10年9月25日)

吉野登美子『琴はしずかに〜八木重吉の妻として〜』より

この登美子に対する煩悶は、兵庫で一人暮らしをしながら書きつけられた日記にも数多く綴られている。「もう私の胸は張り裂けそうですよ、ああこの胸の想いの半分でも、富さんが知っていてくれたら!」。

一九二一年(大正十年)十二月末、冬の夜の芝公園内の茶屋で、重吉と登美子は、久しぶりの再会を果たした。登美子の兄や、重吉が仲人を求めた恩師で先輩でもある内藤先生も同席した。内藤先生は、重吉が結婚が叶わないようなら自殺も考えていると知り、慌ててあいだを取り持とうと登美子の兄のもとに出掛けたのだった。

登美子の兄は当初、「まだ在学中だから」「一週間か十日ほど教わったばかりでは本人同士もわからぬはず」と返事にためらっていたが、この冬の夜の対面で重吉のことを気に入り、また師だと思っていた重吉からの思いがけぬ熱い愛の告白を浴びているうちに登美子もまた重吉に心惹かれるようになっていたので、この夜を機に二人の婚約の話がまとまった。

八木重吉と妻登美子画像 : 前列 婚約当時の八木重吉と登美子(吉野登美子『琴はしずかに〜八木重吉の妻として〜』より)

婚約が決まってからも、詩人からの熱く長いラブレターは届き続けた。詩はあれほどに素朴だが、離れて暮らす婚約者への手紙には感情の全てを表現し、美しくもありまた駄々っ子のような面さえ感じさせる手紙が幾枚にも渡って綴られた。

八木重吉 手紙

その想いと決意はいっそう強まり、登美子の姉が肺結核で亡くなったという知らせを受けた重吉は、肺結核が登美子にも感染しているかもしれない、という不安を抱えながらも、日記に次のように覚悟を綴っている。「富子よ───自分は、お前が、肺病だって、同じこと、否かえって強く愛するのだ、かえって、強く、抱いて寝るよ」。その頃の肺結核は不治の病だった。

その後、一九二二年、七月十九日、登美子は十七歳のときに八木重吉と結婚。桃子、そして陽二と二人の子供を生み、家族四人でささやかながら幸福な暮らしを送った。

八木はテニスやボートなどの運動もしていた。そろそろ帰宅する頃合を見計らって、桃子を乳母車に乗せ、師範学校の垣根の傍までゆくと、テニスをしている八木の姿が見える。そんなとき八木は、私たちの姿を見付けるとすぐにボールを打つのをやめて走り寄って来て、そのままいっしょに家に帰る。桃子と三人の生活は安らかさにみちていた。

吉野登美子『琴はしずかに〜八木重吉の妻として〜』より

少し早まって十二月二十九日に男の児が生れた。八木は大喜びで陽二と名づけるという。「長男なのになぜ二をつけるの?」ときくと、陽は盛んな字、一ももっとも盛んな字、二字とも強すぎてしまうのはいけないから陽二がよいのだ、というのであった。桃子と陽二、この二人は私たちの何ものにも代えがたい宝だ、私たちは心から祝福し合ったのである。この時分の月給は百二十五円、くらしはなかなか大変だったが、貧しさなど問題ではなかった。

吉野登美子『琴はしずかに〜八木重吉の妻として〜』より

ただ、幸せな日々も長くは続かなかった。八木重吉は一九二七年、結核によって二十九歳という若さで亡くなる。さらに、その十年後の一九三七年には桃子(十四歳)が、一九四〇年には陽二(十五歳)が、それぞれ重吉と同じ病で亡くなった。

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登美子にとって、それは深い悲しみと絶望に突き落とす現実だったが、残された重吉の詩が、彼女を、生きよう、生きねばならない、と思わせるのだった。