中原中也の名付け親
中也の母フクの妊娠が判明した頃、父謙助は陸軍の軍医として旅順に駐屯していた。そのためフクはさっそく妊娠の旨を記した手紙を旅順の謙助に宛てて送った。謙助はすぐに手紙の返事を返し、返事には、「名前は、男なら柏村(旧姓)中也」とあった。
この謙助の手紙によって名前が決まり、山口県吉敷郡に「柏村(のちに中原)中也」が誕生した。一九〇七年、四月二十九日。フク二十七歳、謙助三十歳のことだった。ちなみに、中原中也という名前は一見するとペンネームのように感じられるかもしれないが、まぎれもなく本名である。
中也は、中原家としては四十五年ぶりの男の子。家族一同「奇跡の子」と沸き上がり、親族や書生を招いて三日三晩の祝宴が開かれた。中原中也は、周囲の期待を一心に背負った長男坊だった。
背丈の小さかった(大人になったときでも一五〇cmほどだった)ことでも有名な中也は、赤ん坊の頃から他の赤ん坊と比べてひときわ小柄だった。それでもすくすくと育ち、日増しに成長していく姿に家族は喜んだ。
この「中也」という名前について、中也の性格を物語る面白いエピソードが残っている。
伝説めいたことが好きだった中原中也は、のちに友人らに「自分の名前は森鴎外が名付け親だ」という「嘘」を吹聴していた。鴎外が謙助の軍医学校在籍時の校長でもあり、中原家とも交流があったことから、中也は名前の由来に関する嘘をついたようだ。
実際は、謙助の同僚の中村緑野という軍医が名付け親だった。この事実を、友人で中也の死後に伝記も書いている大岡昇平は中也が亡くなってからフクに知らされることになる。
中也はのちになって、お友達などに森鴎外さんが自分の名前をつけてくれた、と嘘をいっておったそうなんです。いつかも、私は大岡昇平さんから、「中也という名前は、鴎外がつけたというのはほんとうでしょうか?」と、たずねられたことがありました。
「いえ、あれは中村緑野さんがつけたんですよ」
「ありゃあ、中也くんは嘘をいうた」
私がほんとうのことをお答えすると、大岡さんはだまされておった、と笑ってらっしゃいました。中也はときどき、お友達などに、そんな嘘をいうておったようです。
中原フク『私の上に降る雪は 我が子中原中也を語る』より
ちなみに、謙助から届いた手紙にあった「中也」という名前には振り仮名がついていなかった。そのため「中也」の読みが、「なかや」なのか、それとも「ちゅうや」なのかとフクは悩んだ。
結局、「なかちゃん」と呼ぶよりも「ちゅうちゃん」と呼ぶほうが馴染みやすいという理由から、自然と「ちゅうや」になっていった。
参考文献 中原フク『私の上に降る雪は 我が子中原中也を語る』