フランツ・カフカ

フランツ・カフカ 少女の人形と手紙

カフカ、少女と人形の話

チェコの作家フランツ・カフカは、死の前年、療養も兼ねてドイツのベルリンに住んでいた。

根底に巣食う極度の不安や絶望感のため、生涯結婚することのできなかったカフカだったが、彼の最期まで寄り添うことになる若いポーランド生まれの女性ドーラ・ディアマントと二人で暮らしていた。ドーラは、繊細なカフカが家族以外で一緒に生活することのできた唯一の女性だった。

カフカとドーラの二人は、よく郊外のシュティーグリッツ公園に散歩に出かけた。

これから紹介するエピソードは、その公園を舞台にした、カフカの晩年に起こった心優しくささやかな物語である。

このカフカのエピソードは、作家の村上春樹も過去にインタビューで触れ、また、ポール・オースターの小説『ブルックリン・フォリーズ』にも登場する。

 

物語のきっかけは、公園での少女との出会いだった。

ある日、いつものようにカフカとドーラが一緒に公園を歩いていると、散歩道の途中で幼い少女と出会った。少女は、わんわんと声をあげて泣いていて、すっかり打ちひしがれた様子。

二人が、「どうしたの?」と尋ねると、少女は泣きながら「お人形さんがいなくなっちゃったの」と言った。

カフカは、少女をなだめるように、「君のお人形さんは、今ちょっと旅行に出ているだけなんだ。ほんとうだよ。おじさんに手紙を送ってくれたんだから」と言った。

「そのお手紙、もってるの?」と少女。

「いいや、お家へおいてきちゃった。でも、あしたもってきてあげるからね」とカフカ。

少女は、目に涙を浮かべながらカフカをじっと見つめた。不信と好奇心の入り混じった眼差しに、カフカは優しくほほえみ返すと、少女と別れ、ドーラと一緒に家に帰った。

家に戻ったカフカは、さっそく自分の机に向かうと、少女との約束を守るため、その人形からの手紙を書き始めた。

カフカの姿勢は真剣そのものだった。彼女の傷ついた心に寄り添う「人形の手紙」に、日頃の創作のように取り組んだ。

 

翌日、カフカたちが手紙を持って公園に向かうと、少女は約束通り公園で待っていた。

少女は、まだ字が読めなかったので、カフカはその「人形の手紙」を声に出して読んであげた。

手紙のなかで人形は、自分が一体なぜ姿を消したのか、その理由を少女に語った。人形は、決して悲しい理由でいなくなったのではなく、しばらく今の場所を離れて新しい世界を見てみたかったからだと少女に伝えた。

それから人形は、「毎日手紙を書くから」と約束した。以来、人形はカフカというひとりの作家の心を借りながら、自分の日々の新しい冒険について語っていった。

手紙を重ねるうちに、人形も次第に成長した。成長するに連れ、学校に通い、友人との付き合いも増えていった。

そして、ある日のこと、人形は悲しい真実を打ち明けるように少女に言った。

「あなたのことはとても愛しているわ。でもね、付き合いや日々のなすべきことが積み重なっていて、もしかしたら、もういっしょに暮らせないかもしれないの」

こうして徐々に、人形と少女との避けられない別れの準備がなされた。人形から少女に宛てた手紙は、そんな風にして三週間ほど続いていった。

カフカは、手紙の結末に悩んだ。

それは、大切な存在を失ったことによって生じた少女の傷口を癒すひとつの「物語」でなければならなかった。

考え抜いた末にカフカは、この手紙のフィナーレに「結婚」を迎えることに決めた。

人形からの最後の手紙では、人形の婚約のパーティーや準備の様子、若い新婚の二人の家などが丁寧に描写されていた。

手紙の中身を聞きながら、少女の目の前には、穏やかな幸福に満ちた彩りのある景色が広がっていった。

そして、手紙の終わりに人形は、祝福の想いに満たされた少女に向かってそっと語りかけた。

「わたしは幸せよ、今までありがとう。そしてわたしたちは、きっともう二度と会えないとあきらめなければならないことを、わかってほしいの」

手紙を読み終えたとき、少女の悲しみはすっかり消え去っていた。悲しみが悲しみとして受容され、昇華されたのだった。

ドーラは後年、このときのことを振り返りながらこんな風に語っている。

“フランツは、ひとりの子供の小さな葛藤を芸術の技法によって解決したのだった ───  彼が世界に秩序をもたらすために、みずから用いたもっとも有効な手段によって。(ドーラ・ディアマント「フランツ・カフカとの生活」より)”